人工知能(artificial intelligence, AI)はもともと人の心に対する関心と深く結びついた学問であり,そのような関心が様々な情報技術の源泉になり,学問としての魅力にもなってきたのではないかと思う.しかし最近は,AIの情報技術としての側面が拡大した一方で,認知的(cognitive)な側面への関心が弱まり,それに伴って研究の本質的な多様性が縮小しているように感じる.このような問題意識を背景として,本稿ではまず,情報技術の創出における認知的なAI研究の特徴や意義に関する私の考えを述べる.その後,認知的なAI研究における私の立場を述べる.
COGNITIVE AI
心,のようなもの
AIの研究には様々な立場があるが,基本的な特徴の一つとして,「心のようなもの」を作ることが挙げられる.なお心というのは精神活動全般を指す曖昧な言葉であるが,それをどのように捉えるかも作ることの一部である.これを軸として研究の立場を次の3つに分けてみる.
A. 心のような機械を作る,あるいはその作り方を見出す.(認知的AI)
B. 心のモデル(模型)を作ることを通して心を科学的に理解・説明する.(認知科学的AI)
C. 道具としてAI技術を創出・改良・使用する.(技術的AI)
Bには認知科学,認知モデル,構成論的アプローチなどと呼ばれる研究が含まれるが,実際のアプローチやスタンスはAに近い場合もある.明確な境界があるわけではないが,作ることに比重を置くのがA,心の科学的な説明に比重を置くのがBという分け方である.
Cは心との類似よりも,情報技術としての用途や性能や有用性に主眼を置いてAIを作る立ち場である.AIが技術として社会に普及する文脈ではCの立場が前面に現れるが,その場合も技術の根底にある原理や考え方はAやBの研究にルーツを持つことが多いだろう.
AはBとCの間のどっちつかずの怪しげな立場に見えるかもしれないが,AIの草創期からある最もAI的な(粗野な?)スタンスではないかと思う.例えばMinskyの「心の社会」理論はAの典型に位置づけられるだろう.
なおこれに関連する問題をLieto (“Cognitive Design for Artificial Minds”, Ch.2, 2021) がより体系的に整理しているのでその一部を簡単に参照しておく.Lietoは,心に示唆を得たAIにおける心とAIの間の同等性の捉え方(あるいはAIシステムを作る際のスタンス)を,Putnamによる分類をもとに,機能的な同等を基準・目標とする比較的緩い立場(functionalist)と,構造的・仕組み的な同等を基準・目標とするより厳しい立場(structuralist)に分けて論じている.Lietoは,AIの技術的な発展と心の理解・説明の両面においてstructuralistアプローチが重要であるとしている.その一方で,純粋なstructuralist(心と完全に同じ構造のAIを目指すこと)は実際的に不可能であるため,functionalistとstructuralistを連続的な関係としている.私が上で使った区分をこれに当てはめると,B(認知科学的AI)はstructuralistをより強く指向する立場,A(認知的AI)は両者の中間あたり(structuralistを科学的に追求する上での難問にはあまり深入りしないが心の仕組みには強く関心を向けるような立場)に位置づけられるのではないかと思う.
以下ではA(認知的AI)を中心にその特徴や意味を考えていく.
絵を描くことへの喩え
認知的AIの立場から心のようなものを作ることを,絵を描くことに喩えて説明すると次のようになる.
まず,絵を描くことを,対象を観ながらそれをキャンパスに描く行為とみなす.対象の観方/描き方には写実派,印象派,立体派,浮世絵,漫画,素朴な絵など様々なスタイルがあるが,いずれにおいても対象と絵の間には何らかの類似性がある.当然ながら,キャンパスという制約の中で描かれる静止絵が,時空間上の対象と同じものになることはない.
心のようなシステムを作ることは,心を何らかの観点から捉えて,それをコンピュータ上(ロボット含む)に構築する行為である.絵においてキャンパスが制約になるように,AIにおいてはコンピュータという枠組みが制約になる.少なくとも現在のコンピュータのメカニズムと心(生物)のそれはおそらく根本的に異なるため,心と人工知能が同じになることは無い.
心の捉え方/作り方には様々な考え方や方法があり得る.例えば,AIには記号主義(symbolism)や結合主義(connectionism)という言葉がある.それぞれが心を異なる観点で捉え,異なる抽象レベルで構成するが,いずれも何らかの面で心に似た振る舞いを示す.どちらが絶対的に正しい(良い)というわけではない.ただし,認知科学的AIの文脈では心の説明としてより真理に近い(写実的である)ことが,技術的AIの文脈では使用価値が正しさの主な基準になるだろう.認知的AIにおける正当性については以下で少し回り道もしながら考えてみたい.
科学技術研究としての特徴
上では心のようなものを作ることを絵を描くことに喩えたが,科学技術研究としては,自由な創作でよいというわけではない.また,作ることを通して何らかの知が生み出される必要がある.そこで今度は,科学技術的な知を生み出すこととの関連で,心のようなものを作ること及びそこから生まれる知の特徴を考える.
まずは比較のために,モノ(人工物や人工的なシステム)を作ることを通して科学技術的な知を生み出すことの一般的な形態や意味を考える.以下の記述の一部は吉川弘之が提唱する「一般デザイン学」や「本格研究」を参考にしているが,それを忠実に踏襲しているわけではないので,図式や言葉使いは独自のものとなっている.
まず,モノを作ることを通して科学技術的な知を生み出すということを図式化するとこうなる.
モノは何らかの目的のために作られる.ここで目的というのは人々の活動における用途や作用,あるいはモノが関与して生じる活動であり,これをコトと呼ぶことにする.大まかに言うと,望ましいコトを構想して,それを実現するようなモノを構想することがデザイン(設計)である.モノを作る際には,人類が築いてきた知(ここでは特に科学技術的な知を想定して話を進める)が利用される.しかし,(伝統的な学問観に基づく)科学技術的な知は領域内的な基準により体系化される傾向が強いため,具体的なコトに合わせてモノを作る文脈では,様々な知を総合・統合する作業が必要になる.このような総合・統合のための知を一般化することも重要であるし,モノ/コトの実現に必要な知がまだ無い場合は新たに生み出さなければならない.このようにして総合的でプラグマティックな知を生み出すことが,モノを作ることに軸足を置いた科学技術研究の重要な役割であるという見方ができる.これは技術的AIの立場からモノを作ることにも当てはめられる.
一方,認知的AIの立場からモノを作ることを上の図式に似た形で表すとこうなる.
「心」を何らかの観点から捉えて,それをもとにモノを構想・実現するという流れは前の図式に似ている.それは科学技術的な知をもとに行われるわけであるが,分類的に体系化された知(分析的な観点から構成されてきた知)がそのまま適用できるわけではなく,様々な領域の知を総合・統合することが本質的な問題となる.また,不足している知は新たに生み出さなければならない.前の図式との大きな違いは次の点である.認知的AIの立場においては,モノがコト的な目的に合わせて構想されるわけではない.前の図式ではコトがモノを限定するのに対して,認知的AIにおいては心との類似(及び差異)がモノを限定する.これが認知的AIの面白いところではないかと思う.この相違点に着目して,「モノを作ること」と「生み出される知」の各側面をもう少し詳しく考える.
(1) 作ること
認知的AIを作ることと技術的AIを作ることを,単純なデザインの図式に当てはめて比較する.
技術的AIにおいてはコト的な目的に合わせてモノが構想される.コト的な目的はモノの用途やそれが人々にもたらす価値・作用であり,モノの構想は主に機能とそれを実現する仕組みからなる.コト−機能−仕組みの間には相互依存的(相互制約的)な関係があるだろうが,階層的に捉えると,コトによって機能が限定され,機能によって仕組みが限定されるという方向が主になると考えてよいだろう.
認知的AIを作ることも上と同じような図式で捉えられる.認知的AIは無目的的である(コト的な目的を持たない)点は非デザイン的とも言えるが,その代わりに心との類似という拠り所がある.心というのは曖昧で広大な対象であるため,実際は,何らかの観点から限定的に捉えられることになる.そしてそれをもとにモノが構想される.モノの構想における第一の要素は,どのような性質が実現されればそれが対象化(限定)された心に似たモノものになるかという目標像である.この性質の中には機能(能力)や時間的変化(発達,学習,進化等)も含まれる.そして,目標とする性質を実現する仕組みがモノの構想の第二の要素である.この構想に認知的な言葉(認知科学,心理学,脳神経科学,哲学など,心の仕組みに関する学問を通して構成されてきた概念)が主に用いられる点も認知的AIの特徴である.
個別具体的なデザインから一般性のある知を構成する段階では,そのデザイン(作り方の仮説)の妥当性を何らかの形で検証することも重要になる.技術的AIにおけるデザインの全体としての妥当性は,コト的な目的の実現により証明され,反対にその実現が困難または不可能であることが分かった時や,他により良い技術が現れた時には否定されることになるだろう.
認知的AIの場合は,一概に言えるわけではないが,主に次の2つの視点が基本になると思う.
- 観察的視点:心とモノそれぞれの観察可能な振る舞いにおける類似/差異.実際は本質的な検証が難しそうな問題も多数ある(創造性,感情,主観,全体など).
- 内省的視点:心とモノの関係及びモノの内的な仕組みを説明する論理.この論理の構成要素にはある程度の科学的な裏付けも求められるだろうが,心については未知の領域も大きいため,アブダクション的な直観や総合も積極的に取り入れるべきだだろう.
(2) 生み出される知
認知的AIの立場から生み出される知の特徴について考える.まず,認知的AIが生み出す知の中心となる領域はコンピュータ(コンピュータに関する知)である.認知科学的AIと結びついて心に関する知が生じる可能性もあるが,中心はあくまで作ること/作り方の方である.しかし,問題がコンピュータ領域の中で閉じていないため,一般的なコンピュータ・サイエンスとしては捉えにくいだろう.また,一般的なデザインとも少し異なるため,人間社会の活動と直接的に結びついた知を生み出すわけでもない.認知的AIは,心の性質や仕組みをコンピュータへとアナロジー的に取り込むことでコンピュータ領域の知を豊かにする運動として特徴づけることができる.以上をまとめると下の図のようになる.
このような運動から生まれる知の価値は次の2つ観点から捉えられる.
- 人間社会の活動の大部分は心の働きにより形作られるため,認知的な情報処理は人間社会に馴染みやすいものになると考えられる.ただし,直ちに役に立つ知を生み出すわけではないので,あまり効率的なやり方ではないかもしれない.しかし,イノベーションの下地や無用の用的な価値を作ることもまた科学技術研究に求められる役割の一部と言えるだろう.
- 心に学ぶことの特に重要な意義は,複雑で複合的な情報処理の技術を生み出すことである.テキストデータにしても,画像データにしても,その意味・情報を適切に扱おうとすると,言語,身体,記憶,常識,想像など様々な問題が現れる.技術的AIの立場は扱うデータやタスクの種類によって専門分化していく傾向が強いが,このような問題を本質的に乗り越えるためには総合や根源を求める視点が必要である.
STORY-CENTERED APPROACH
ストーリー中心アプローチによる認知的AIの探求が私の研究の主題である.これまでに示してきた図式に基づいて,私のストーリー中心アプローチの要点をまとめると次のようになる.
- 心の捉え方: 心の中間的な水準を全体的に捉える.
- 鍵となる性質: 多義性.人の心の性質を表す様々な概念を通して解釈できること.
- 包括的な仕組み: 物語的情報の動き.
各項目について順に説明していく.
中間的な水準を全体的に
心のようなものを作るためには,心を何らかの観点から限定して,モノの目標像(性質)をより明確に定める必要がある.ここでは,部分的−全体的と低次−高次という2つの軸を設けて心の捉え方を類型化する.部分的−全体的の関係を横軸に,低次−高次の関係を縦軸にして図式化すると次のようになる.
部分的−全体的というのは,心の性質の一部分に問題を限定する見方と,心を全体として捉えようとする見方を区別する軸である.前者は言語,感情,知覚,運動,学習のような心の特定の側面の中から具体的なトピックを定める,あるいは特定の知的タスクを遂行する能力に焦点を合わせるようなスタンスであり,おそらくAI研究の多くはこれに該当する.一方,心を全体として捉えて構成しようとする立場は,主に認知アーキテクチャや認知システムの研究に見受けられる.最近は AGI (artificial general intelligence) という言葉もあるが,これも基本的には全体的な見方と考えてよいだろう(実際はAGI研究の中にも様々な目標像があるようなので一概に全体的とは言えないかもしれない).
低次−高次というのは,比較的原初的な生命にも見られる身体的な活動(感覚や運動)に近い水準の認知と,言語や論理的思考のような高度(複雑)な水準の認知を相対的に区別する軸である.AIにおいては,高次に軸足を置く立場としてsymbolism,低次に軸足を置く立場としてconnectionismが挙げられることが多い印象がある.また,symbolismとconnectionismの融合を目指す運動もある.ただし,symbolismとconnectionismというのはあくまで仕組みの抽象レベルに対応するものとして,高次−低次の軸とは区別しておいた方がよいだろう.
ストーリー中心アプローチは,中間的な水準(低次と高次の間)を全体的に捉える立場であると考えている.すなわち,低次の認知の上に位置し,高次の認知を要する種々の知的活動を根底で支えるようなもの,言い換えると人間的な心の根底をなすような性質・仕組みに焦点を合わせるということである.また,仕組みの抽象レベルにおいても,connectionismのような微視的な水準と,symbolismのような巨視的な水準の(統合というよりは)間が当面のターゲットになる.
多義性
心を全体的に捉えるということはかなりの難問であるが,デザインの目標像をより具体的にするためには,どのような性質が実現されればそれが「心に似ている」とか「心の中間的な土台を体現している」などと言えるのかをなるべく的確に言い表さなければならない.
それを科学技術研究の規範に照らして考えると,心の性質・機能を表す概念の体系化や,心との類似度や知性を定量的に測るベンチマーク的な指標の設定により,客観的で共有可能な目標,ロードマップ,評価指標を構築しようと考えるのが順当であろう.しかし,そうした体系や基準は事後的な分析においては有用かも知れないが,それを作る際の直接的な目標にすると重要なところが抜け落ちるのではないかと思う.明示的に捉えられる精神活動や能力はあくまで心の一面であり,作る際には,心の多様な働きを包み込む根源の方に狙いを定めなければならない.それは,荘子的な言い方をすると,明確に表そうとするとそれではなくなってしまうような,抽象的で無限的なものであるかもしれない.
そのような目標を強いて表すとすれば「多義性」,すなわち様々な観点から解釈したり,人と比較したりできることである.これを図式的に表すと以下のようになる.図中の「観点」には心の性質を表す概念(概括的な言葉としては,例えば知覚,感情,意図,分類,計画,推論,想像,創造,記憶,意識,協調)が対応し,それを通して直接的または間接的に観察される振る舞いにかかるのが性質である.
このような曖昧な目標にアプローチする際は,直観を積極的に取り入れるべきだろう.例えば,アブダクション的に包括的な枠(概念,原理,構造など)を仮設して,全体的な整合性を取りながら中身を具体化していくようなスタイルである.また,デザイン的な目標指向性も必要であるが,事の成り行きに身を委ねるような遊び心も必要である.
物語的情報の動き
ストーリー中心アプローチは,上で述べたような包括的で多義的な仕組みを,物語的な情報の動きを中心に据えて構成しようとする取り組みである.ここで物語的情報というのは,個体間のコミュニケーションとしての物語(narrative)ではなく,それを個体内の表象(平たく言うと世界の内部表現,representation)や記憶へとアナロジー的に転移したものであり,これを特にストーリー(story)と呼ぶ.このストーリーという概念を設けることで,例えば次のような心の基本的な性質を綺麗にまとめることができそうである.
- (モノではなく)コトを中心として事物を結合してまとまりのある世界を構成する.
- 時間的な広がり(過去−現在−未来)のある世界を構成する.
- (超越的ではなく)個体の視点から世界を構成する.
- 入れ子状の構造を持つ(物語における語る行為と語られる内容の関係に相当する構造).
- 言語や文化を含む社会的な情報(物語)と内的な情報(ストーリー)が自然につながる.
こうした特徴が心の様々な性質を包括的に扱うのに適しているという着想から,ストーリーを生成しながら物理的・社会的な環境と関わり合うことが心のようなものの根源的な仕組みになると考えるわけである.
このような考えに基づいて開発しているシステムをCOMOS (cognitive monogatari system) と呼ぶ.現在はまだ開発の初期段階である.目標が無限的であることから,COMOSの開発は連続的なプロセスとなる.
リンク: 主要な問題の分類的な整理